におい

■春

朝が来るまで雨が降っていたのか、少し湿ったような。時折つめたい顔を見せる風のような。見頃を過ぎたソメイヨシノを見上げたときの、緑色に透ける光のような。

春のにおいって何か正体があるのだろうかとふと思って調べてみたら、あっさり答えが出てしまった。

  1. 花の香り: 春は多くの花が咲く季節であり、桜(サクラ)、菜の花(ナノハナ)、梅(ウメ)、チューリップなど、様々な花の香りが空気に広がります。

  2. 新芽や若葉の香り: 春には木々が新芽を出し、若葉が生い茂ります。新芽や若葉が出ると、特有のフレッシュな香りが漂います。

  3. 土の香り: 春の雨が降ると、土や植物が潤い、土の香りが立ち込めます。これはペトリコールと呼ばれる現象で、特に雨上がりの春の匂いに顕著です。

  4. 花粉: 春は花粉の飛散が多い季節でもあります。スギやヒノキなどの樹木から放出される花粉も、春の匂いの一部を形成します。ただし、花粉症の方にとっては、花粉は辛いものとなります。

これらの要素が組み合わさり、春の特有の香りや感じる匂いが生まれます。春の匂いは、人々に心地よさや新たな始まりの感覚をもたらすことが多いです。

 

ーFrom GPT-4

 

一人ひとり校長先生につけてもらった名札。ワックスでつやつやになった教室の床。手のひらのしわの形に残った鉄錆。ツツジの蜜。新しく買ってもらったデニムのスカート。肩の余ったブレザー。先輩。後輩。端っこの杭を打たなかったレジャーシート。はじめて一緒に出かけた日。これから毎日見ることになる天井。少しくすんだ水色のコート。

 

■クレンザー

今年引っ越してきたマンションでは、しょっちゅう管理会社の人がやって来ては共用部分を念入りに掃除しているようだ。外のクレンザーのにおいが家の玄関にまで立ち込めている。
お腹が痛くなる。
というよりは、お腹の痛い感覚が思い起こされるというほうが近い。

小学生の頃の話。給食を終えて、昼休みに思いっきり外で遊んでから掃除のために校舎に戻る。コンクリート造りのトイレはひんやりとしており、外遊びで火照った身体が急激に冷やされる。食べたばかりで走り回ったからか、牛乳が体質に合わないからなのかはわからないが、この時間になると高確率でお腹がゴロゴロしてくる。だがなんと残酷なことだろう、学校ではトイレに長く籠もるのは恥ずかしいという風潮があった(大体みんなそうだと聞く)。ましてトイレ掃除で人が集まっているこの時間に、個室になんか籠もれるものか。だから多少のゴロゴロは我慢して、他のことで気を紛らわそうと必死だった。

流しやタイルの掃除には「カネヨクレンザー」という粉末状の洗剤を使っていた。全体に水を流してからクレンザーを振り撒き、たわしやデッキブラシでこする。水とクレンザーの配分が難しい。水が少ないと全然泡立たないし、逆に多すぎるとクレンザーごと流れて排水溝に吸い込まれてしまう。
わたしは結構まじめな小学生だったので、しっかり掃除する優等生に見えていたかもしれないが、実際はゴロゴロを忘れるために無心で目の前の粉を泡立せていただけという側面が強い。
各学年2クラスしかない公立の小学校の蛇口からお湯が出るわけもなく、冬は手の感覚がなくなるほどに水が冷たかった。あまりの冷たさに何度も心が折れそうになったが、幸い致命的な失敗は一度もしなかった。

カネヨクレンザー
■コーヒー

出かけた先で珈琲屋を見つけると、お土産にと100gか200gを挽いてもらって帰ることがよくある。ただ飲むのが追いつかずに、しまう場所がなく袋のままテーブルの上でアロマと化していることもよくある。

つい先ほど。夕飯を終えてのんびりしていたら、同居しているパートナーがうっかりギターを倒して、そのはずみでコップに入っていたコーヒーがまるごとカーペットにこぼれてしまった。一瞬空気が凍ったが、すぐに拭き取ったのと、カーペットがもともと濃い色で複雑な模様だったから、汚れが目立つことは全くなくほっとした。もし白いカーペットだったら全面に均等にこぼさなきゃいけなかったねなどと笑った。

だがにおいだけは残ってしまった。これ以上拭き取る水分もないので、とりあえずファブリーズを振り撒いて根本的解決からは目を逸らした。

コーヒーは飲む前までのにおいがいちばん良い。飲んだあとは普通。こぼれたあとは良くない。これってなぜ?

きっとまた、あっさり答えは出てしまうのだろうが。

花のない生活

ほどほどに陽当たりの良い台所で、小さな鉢の観葉植物を二つ育てている。
どちらも元々は実家にあり、伸びすぎた茎を切って分けてもらったものだ。自宅に持ち帰って水を入れた瓶に挿しておき、根が生えるのを待ってから鉢に植え替えた。

 

二つのうち、一つはブライダルベールで、札幌に住む祖母が、家で育てていたものを同じように切り分けて持って来たという。祖母は認知症になり、今は施設で暮らしている。もう何年も会っていない。
もう一つはポトスで、いつからあったのかはわからないが、物心ついた時から実家の景色の一部だった。

 

植え替えた鉢を、初めは自宅のリビング(と言うほどでもないが)に置いていたのだが、陽当たりが良すぎたせいか、見る見るうちに葉が変色してしまった。ほぼ枯れかけの状態だったが、よく見るといくつか新しい芽が出ていた。まだチャンスはあると思い、まずは鉢の場所を移し、元気のない葉を切り落とし、土の状態をこまめに確認するようにした。場所を移してから半年程経って、ようやく様子が安定してきた。今では植物を育てることに対して楽しさのようなものも感じている。

 

ただ、どうしても花を育る勇気は出ない。また枯らすんじゃないかという不安があるのももちろんだが、多分それだけではない。小学生の頃、クラスの友達のお誕生日会に行った日のことを思い出すからだ。

 

 

小学校1年生。お誕生日会というものに初めてお呼ばれした。まだ友達になってから1年も経っていない自分を呼んでくれるのがとても嬉しかった。
ところで、お誕生日会って何をするんだろう。自分の他にも、数名の友達が呼ばれているということだけは知っていた。みんなで誕生日の歌を歌ったりするのかな?学校じゃないからそんなわけないか。ごちそうやケーキを食べたりとか?

 

ドキドキしながら当日を迎えた。友達の家は少し遠いところにあったので、母が送ってくれることになった。
家を出る直前に母が言った。

 

「そうだ、花屋さんで花束作ってもらおうよ。」

 

えっ。と思った。だって、花束とか、持たないじゃん、普通。わたし、花束もらっても別に嬉しくないし。友達も花なんかもらって嬉しいのかな?嬉しくなかったら嫌だなあ。恥ずかしい。
しかし母はすっかりその気だったので、嫌だとはとても言い出せず、結局花屋に行くことになった。

 

近所の小さな花屋は、当時から既に古い佇まいだった。今でこそレトロな雰囲気は持てはやされるが、当時は何だか暗くて、できることなら行きたくないと思っていた。
店先の、あまり多くはない選択肢の中からいくつかが選ばれ、花束が作られた。
花束には白くて小さな花がたくさんあった。手に持つと、その小さな花が顔に当たってくすぐったかった。

 

友達の家に着いた。花束は目立つから、必然的にすぐに渡すことになった。
「わあ!」と、友達のお母さんが喜んだ。
よかった。変じゃなかったんだ。

 

しかしわたしは見逃していなかった。友達が笑いながらも、少し困った顔をしていたのを。

 

やっぱりそうだよね。花なんかもらっても困るよね。わたしも知ってるよ。でもお母さんが買うって言うから。
誰にも責められていないのに、心の中で必死に言い訳をした。
お誕生日会は、みんなでお菓子を食べたりゲームをしたりで、普段遊ぶのとあまり変わらないなと思った。

 

それはケーキを食べた後だったと思う。他にお呼ばれした友達が、主役の友達に誕生日プレゼントを渡す時間があった。
えっ。と思った。
何でみんな、プレゼントを用意してるの?何でわたしだけ、プレゼントを用意するって知らなかったの?

 

他の友達があげていたプレゼントは、かわいい文房具とか、エプロンとか、とにかくもらったら嬉しいだろうなと思うものばかりだった。そんなプレゼントを選べる友達が大人に見えたし、なぜそんなに高そうなものが買えるのかわからなかった。
わたしは(お母さんが買った)花束をあげたからセーフ?でも、友達、喜んでなかったし。

 

夕方になり、その日はお開きになった。少しホッとしながら帰り支度をしていると、そこでまた、えっ。という出来事があった。主役の友達のお母さんが、「今日はみんな来てくれてありがとう」と、全員にお礼の品をくれたのだ。しかも結構大きな袋だった。

 

家に帰って袋を開けてみた。かわいい文房具や雑貨の詰め合わせだった。花束を渡したとはいえ、自分で何も選んでいないのに、お返しだけもらってしまった。罪悪感で胸がいっぱいになった。

 

その後も、他の友達のお誕生日会に呼ばれることが何度かあった。その度に母は花束を買ったが、わたしも自分でプレゼントを用意した。だがそれは、他のみんなが用意しているような文房具や雑貨ではなく、手作りの工作のようなものだった。「他のみんなはこういうプレゼントを渡しているんだよ」とは、母には言えなかった。「みんなと違う」と打ち明けるのが何となく嫌だったから。
そして、お誕生日会の最後には必ずお返しをもらった。お返しの品は、決まって文房具や雑貨の詰め合わせだった。

 

 

わたしが住んでいたのは、市が合併する前の、学区の外れだった。家の目の前は違う市だったし、2年通った幼稚園も違う市にあった。一学年20人もいない、教会附属の小さな幼稚園だった。
卒園すると、学年の半分くらいは違う市の小学校に入学し、残りはバラバラになった。一人だけ同じ小学校に入学した子がいたが、クラスは別になった。

 

入学した小学校は、目の前に幼稚園があり、クラスの半数以上がその幼稚園出身ということだった。当たり前だが彼らは元から友達同士で、持っているものもみんな同じだった。みんなキャラもので、両面開きの筆箱を使っていた。わたしは「いろいろ機能が付いていると気が散って良くないと聞いた」という理由で、地味な片面開きの筆箱だった。みんなはビニールのケースに入ったクーピーを持っていた。わたしのクーピーは缶のケースだった。缶は開けるときに大きな音がするし、ビニールに比べると古臭いから恥ずかしかった。みんなのクーピーには「はだいろ」があるのに、わたしのクーピーにはなかった。悔しいから、クーピーを赤から順に虹色に並べて気を紛らわせた。

 

3年生に上がると、お小遣いを貰えるようになった。わたしは今までの恥ずかしさを精算するように、両面開きの筆箱を買ったし、はだいろのクーピーも買った。はだいろは虹色の列の中では座りが悪く、端っこが指定席になった。

 

そして、友達のお誕生日会で渡すプレゼントも自分で買うようになった。

 

 

みんなが同じものを持っていたのは、幼稚園に向けて一斉販売があったからだと思う。筆箱も、親同士で情報交換をした結果、同じようなものになったのだろう。
そして、「お誕生日会」も、そのコミュニティの中で出来上がった文化なのかもしれない。誕生日の子が、仲の良い友達を5~10人、家に呼ぶ。みんなでゲームなどをして遊ぶ。お菓子やケーキを食べる。呼ばれた子たちが、主役の子にプレゼントを渡す。主役のお母さんが、帰りがけにお礼の品を渡す。そういったフォーマットが存在していて、みんなそれに則ってイベントをこなしていく。思えば、お誕生日会の主催者はみんなその幼稚園の出身だった。親もその文化を知っているから、子どもと一緒にプレゼントを買いに行くのだろう。だから子どもだけでは買えないようなプレゼントが出てくるのだ。

 

小学校での日々はそれなりに楽しかったけれど、既に出来上がった輪の中にお邪魔しているような気もして、何となく疎外感のようなものがあった。自分の行動がずれていないか、みんなはどうしているのか、仲間外れにされないかといつも気がかりだった。

 

 

花束の中にあった白い花は何だったのだろうと思ってネットで調べたら、どうやらカスミソウのようだった。「ちょっと昭和の印象もあったりして、オシャレなお花屋さんでは置いていないこともありますが…」という紹介文に思わず苦笑いした。あの花屋はまだやっているのだろうか。おそらくもうやっていないだろうな。

 

そんなことをいちいち思い出すので、未だに花は買えないでいる。

環境のせい/自分のせいという発想のコペルニクス的転回

「環境のせいにするな」とよく言われるが、普通に環境のせいはあるんじゃないのか

しばらくローテーブルしか家具のない部屋で生活していたところ、一切のやる気が起きず、惰眠を貪ることが多くなった。


たまにPCを使って作業をするときは、テーブルの上でPCを開き、その横に小さなテレビを移動させてきてサブモニター代わりにしていた(いちいち移動させる動作がまず面倒くさい)。
そんなこじんまりとした環境なうえ、床に座っているものだから、すぐにお尻や腰が痛くなってくる。少し休もうにも、座椅子などはないので寄りかかる場所がない。そうすると床を背もたれにして仰向けになり、いつの間にか眠りに落ちてしまう。


そして、なにせ小さなテーブル1つしかないから、一度テーブルにものを出したら、食事のときにはそれらをどかさないといけない。1日のうち食事のタイミングは必ず複数回訪れるので、そのことを考えると、PCをテーブルの上に置く気力がなくなってくる。しまいには、PCをパカッと開く動きさえ億劫になった。 

 

 

2020年春。件のウイルス大流行を受け、全国に緊急事態宣言が出され、多くの人がリモートワークを強いられた(「リモートワーク」、「テレワーク」、「自宅勤務」など呼び方は様々だが、わたしは好んでリモートワークと呼んでいる。「テレワーク」には何故か昭和の匂いを感じる)。
よく読む雑誌ではリモートワーク特集が組まれ、広めのデスクやちょっと良いチェア、モニターなどが紹介されていた。SNSを開けば、通販でリモートワークグッズを買い揃えている友人も。

 

職場が徒歩圏内ということもあり、自分はリモートワークではないのだが、いろんな人が自宅環境を整えて能率アップした話には大変な刺激を受けた。
ごくたまに行っている、趣味やフリーランス的な制作、仕事のための勉強などをするときに、その能率が上がったら素晴らしい。というか普通に考えて、できることが増えればその分年収が上がるはずだ(年収2000万円欲しいと常々言っている)。

 

そこで思い出した。
テレビ台を買ってもらう約束があったことを。
去年の秋に引っ越したとき、お祝いとして、友人がテレビ台のための資金を出してくれることになっていたのだ。
ちなみに品目はサイコロを振って決めた。1がたこ焼き器、6がウォシュレットで、テレビ台は2だった。

 

先述したように、自分はテレビをサブモニター代わりに使っている。
むしろテレビと思っていない。サブモニターだと思っている。

 

一応、「テレビ台のための資金」という名目があったので、
テレビ台をいろいろ探してはみたのだが、自分にとってあまり良いものはなかった。
小さすぎたり、逆に大きすぎたり。

 

最低条件:
・20インチのテレビが載る
ルーターとケーブルテレビのチューナーが置ける

 

……上記全てが載りきるような長机を買って、テレビ台兼作業台にすれば良いのでは。天才!

 

約束のある手前、「テレビ台」で押し通すことにした。

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バレた

ついでに椅子も買った。
コスパ最強と言われているイームズチェアのリプロダクト品。1万円を切るが、背面がしなるのでずっと座っていても疲れない。

 

こうして環境を整えたことにより、休日に昼寝をしなくなった。
コーヒーさえ手元にあれば何時間でもPCに向かっていられる。

 

さらに、ルーターとチューナーをを床に置かなくなったので、ケーブル類もスッキリした。
実は、自分としてはこれらを床に直置きしているのがいちばん気に入っていなかった。ホコリが溜まるし、掃除もしづらいし。
今では掃除がしやすくなり、家具が増えたにも関わらず逆に部屋が綺麗になった。
部屋が綺麗だと自然とやる気が湧いてくる。

 

自分がだらけていたのは完全に環境のせいだった。
前回の記事で、古いMacbook Airを買い替えずに済ませるための言い訳をうだうだ並べたが、普通に新しく出たpro買お。

 

 

環境のせいか、自分のせいかという問いは実は間違いらしい

環境のせいにするなというなら全ては自分のせいなのだろうか。だが、テレビ台 a.k.a. 長机の一件があってから、必ずしも「環境のせいにするな」とは言えないんじゃないかと思った。環境のせいの場合もあるじゃないかと。

 

確かめたくて「環境のせいにするな」でググった。すると4件目くらいにヒットした意識高い系ブログにこんなことが書いてあった。

 

・そもそも「自分のせいか」「環境のせいか」と問うこと自体が不毛。それは環境のせいにする心理と、自分のせいにする心理というのは、実は同じことだから。
・誰のせいなのか、誰のせいにしようかというふうに思考し続けている人が本当に欲しがっているのは「自分が今いる、その環境にいることの正統性」。
・目を向けるべきなのは「どうやってその状況を脱するか」ということ。

 

なるほどなと思ったが、意識高い系ブログに啓発されている状況が少々嫌だったので、なんかもっと偉めの人が言ってる言葉というか、裏付けが欲しくなった。
いろいろと探しているうちに、「問い自体が不毛」という言葉にピンときた。

 

 

『それでも人生にイエスと言う』

『それでも人生にイエスと言う』は、ナチスによる強制収容所の体験として全世界に衝撃を与えた『夜と霧』の著者ヴィクトール・フランクルが、その体験と思索を踏まえて「人生を肯定する」ことを訴えた講演集。
大学の基礎演習でいちばん初めに受けた授業が、この本を各自読んで考察をまとめ、グループディスカッションするというものだった。
初めての授業ということもあり印象に残っているのだが、この本の中にこのようなことが書いてあった。
原本が手元にないため言い回しなどは正確でないことをあらかじめ断っておく。

 

・「成功」や「幸福」は「自己超越」(自分以外の物や事や人に我を忘れて没頭すること)の結果として手にする副産物にすぎない。つまり、求めるべきゴールではない。
・人は問いをするのではなく、人生から常に問われている存在であり、その問いに正しい行為で答え続けることが生きる意味であり責任。

 

人が生きる意味を問うこと自体が間違っているというコペルニクス的転回。
「置かれた場所で咲きなさい」みたいなことだろうか。
最近でいうと丁寧な暮らしがそれにあたるのか。

 

余談:コンビニで売っている「なめらかソースの海老グラタン」「おだしで炊いたあじご飯」みたいな修飾 + 名詞にすると丁寧な暮らしっぽくなる。
例)「1ヶ月前からじっくり抽出させた麦茶」「毎日必ず持ち歩くのは、画面に放射線状の模様を入れたスマホ

 

 

ということで。環境のせいにするのが愚かで自分の責任にするのが偉いみたいに思いがちだが、そもそも何かのせいにすること自体が見当外れだったっぽい。
無駄に居眠りして自己嫌悪に陥ったときは、起きていられる工夫を考えよう。

 

さてわたしは今日もピカピカに磨き上げたデスクの上で、6年間使い込んだPCを開いて、駅前のコーヒー屋で挽いてもらった豆をドリップしたコーヒをお供に夜な夜な作業するか〜!

MacBook Airを買い替えるにあたり背中を押してほしい

PCの買い替え。これは(さほど裕福とは言えない)20代の人間にとって、割と大きな問題のように思える。
特に、そのPCがなければ収入源が絶たれるという切迫した状況でもない限り、
即決することもできないまま、延々と悩み続ける羽目になる。


とは言え、機械は消耗品。使い込めば使い込むほど身体に馴染み味が出るというものでもない(むしろ使い込むほどに故障する可能性が高まる)。
新しいPCを買うにあたり、誰かが背中を押してくれないかという淡い期待を抱いて、
ここに、自分がPCについて思うことを列挙する。

 

 

【買い替えの検討に至った理由】


■シンプルに古い
一般にノートPCの寿命は5年と言われている。
自分のものは2014年モデルなので、基準を超えており
近いうちに突然故障するかもしれないという不安を覚える。

 

■ストレージが少ない
HDDの容量が256GB。
サイズの大きなデータは外部ストレージに移しているため
本体の容量をそれほど食っているわけではないが、
毎度の移行作業は面倒なもの。
マシン1台に全て収まるに越したことはない。

 
■OSの各種新機能に対応していない
簡易サブディスプレイにする目的でiPad Proを購入したが
肝心のMac本体がサイドカーiPadをサブディスプレイ化させるための機能)に
対応していなかった。
2018年以降のモデルにしか対応していないらしい。

 


【検討を後押しした出来事】


■OfficeとAdobeのアプリケーションが使えなくなった(不注意)
最新のOS「Catalina」にアップデートしたところ、
64bitのアプリケーションにしか対応しなくなっており、
32bitのOffice系ソフトやAdobeのパッケージ版は完全に使用できなくなってしまった。

 

■ダウングレードはできるが面倒すぎる
外部ストレージにバックアップを取った上でマシンを初期化し、
Mojaveをインストールすることでダウングレードが可能になる。
が、バックアップを取る手間が惜しい。
(Time Machineは使っていなかった)

 

■大事な場面で突然再起動した
先日、DJの出番1分前にマシンが突然再起動してしまい、肝を冷やした。
あれはどちらかと言うとアウトだった。 

 


【新しいMacの魅力的なところ】


■小さくて軽い
ベゼルが減った分本体の大きさが少し小さくなり
更に軽くなったという。
2014年モデルのMacBook AirもノートPCとしては軽いほうだが
持ち運ぶときはやはり重いと感じる。

 

■液晶が美しい
綺麗なほうがテンションが上がる。

 

■思ったより高くない
iPhoneより安い。

 

【買い替えを踏みとどまる理由】

 

■ダウングレードできなくもない
上記のように手間さえかければMojaveに戻すことは可能。


■Office系アプリケーションが使えなくなったところで困らない
卒論の文字数をリアルタイムで見たいがためにWordを入れただけで、
ここ数年は全く使っていなかった。
2万円くらいしたので勿体ない気持ちが大きかっただけ。

 

 ■AdobeはCCにすれば良い
CCのアプリケーションならば今のマシンでも使えるので
マシン本体を買い換える理由にはなり得ない。
職場ではCCを使っているので、最新の機能の便利さは十分に理解しており、
そのうち個人用にもCCを導入したいと考えていた。

 

 ■仕事で使っているわけではない
事務所では備品のマシンを使っており、自分のマシンは完全に自宅用。
メモリは4GBだが、デザインデータやエディタを使う上で不自由を感じたこともない。

 

■それなりに高い
即決する価格ではない。

 

■新デザインはリンゴが光らない
光るリンゴがとてもカッコいいと思っており気に入っている。
その点光らない新デザインには物足りなさを感じる。

 

■今使っているMacはどうする
故障しているわけではないので捨てるのは勿体ない。
買取やフリマに出品するのが良さそうだが、
それなりに思い入れのあるステッカーを貼っており、手放すのが名残惜しい。
だが、脳内管理コスト削減のために所持品はなるべく少なくしておく方針のため、
Macを2台家に置いておくのも気が引ける。

パターンにまつわるあれこれ

子どもたちを自然の中に放置すると、しばらくしてそれぞれの興味に従って「観察するもの」を選び出す。あるものは昆虫を眺め、あるものは花を眺め、あるものは海岸に寄せる波を眺める。そうしているうちに、子どもたちがふっと観察対象のなかにのめり込む時間が訪れる。それは彼らの様子を横で見ているとわかる。いったいどういう場合に「のめり込む」のか。それは「パターンを発見したとき」である。虫の動きのうちにある法則性があることを直感したとき、花弁のかたちにある図形が反復することを直感したとき、岸辺に寄せる波の大きさに一定のパターンがあることを直感したとき、子どもたちは彼らなりのささやかな「予想」を立てる。もし自分の仮説が正しければ、次は「こういうこと」が起きるはずだと考える。そして自分の「予想」の通りの「イベント」が起きるかどうか息を詰めて見守る。

『日本の反知性主義内田樹編、晶文社、2015年

 

子どものうちから、人はパターンを発見することに喜びを覚えるらしい。

 

自宅のすぐ近くにコンビニがある。仕事帰りの深夜に立ち寄ることが多い。そういう場合は大抵夕食を作る気力がなくて、カップ麺でも買って帰ろうかというときだ。
で、このコンビニなのだが、結構な頻度で無人店舗化する。最近はセルフレジの導入が進んでおり……という話ではない。普通に、店員がレジに立っていない。つまり会計ができない。
奥から店員が出てくるかと思い、少しの間待ってみる。……が、一向に現れない。「すいませーん」と、虚無に向かって声をかけてみる。……反応はない。諦めて、何も買わずに店を出るしかない。
このコンビニ以外にも近くに別のコンビニはあるのだが、あの店にはなくて、この辺りではここにしか売っていないカップ麺をどうしても食べたくなることがある。そういうとき、会計ができずに帰るしかないのはとても悔しい。

 

ある日もそのコンビニは無人店舗だった。またか、と思いつつ、しばらく店の中にいると、なんとその日は奥から店員が現れた。眼鏡をかけた彼は少し焦った様子で、小走りでレジまでやって来た。ハーパンだった。コンビニ店員がハーパンなのは初めて見た。
無事に会計をしてもらったが、様子を見るにおそらく彼は寝起きだった。店の奥で居眠りをしていたのだろう。

 

そのまたある日も無人店舗に途中で店員が現れた。やはり眼鏡をかけた彼だった。そして寝起きっぽかった。間違いない、こいつは深夜、客が少ないのを良いことに仕事中居眠りをしている。

 

数ヶ月ほど前、珍しく彼が最初からレジに立っており、会計をしてもらったついでに名札を見た。知り合いにはいない苗字だったが、今は引退した元野球選手に似たような苗字の人がいたなと思った。帰宅して、○○(苗字)、許さん!と一人で怒った。

 

普通に暮らしていると怒りの感情は長く続かないもので、眼鏡の彼のことなんかすっかり忘れてしまう。店の前を通りかかって、そういえばあいつ!○○!許さん!臥薪嘗胆!とわざわざ名前を思い出して、怒りを忘れないようにしたりしている。

 

この間も彼のことは忘れていたが、久々の臥薪嘗胆ごっこをしたときは思い出した苗字が間違っていた。昨日店に行ってもう一度正しい苗字を確認してきた。まあその程度の怒りということだが。
とにかく、深夜あのコンビニが無人店舗だったら、間違いなく犯人は眼鏡の彼である。

 

 

自分自身でも行動をパターン化することはよくある。パターン化しておくとその都度無駄に考える必要がなくて楽だし早い(思考停止とも言う)。


例えばクレジットカードで支払いをするとき、支払い回数を訊かれると必ず一回でと答えるようにしている。


そのせいで、この間20万円するドラム式洗濯乾燥機を購入したときも迷わず一括払いにしてしまった。人生で初めてiPhoneより高い買い物をしたというのに、決断が爽やかすぎた。別にこのせいで生活ができなくなるわけではないのだが、いつか失敗しそうだ。

 

何でもパターン化すると応用が効かない。if文を増やしまくると覚えきれない。汎用の関数を作るのみにしておいたほうがいい。

 

 

1日にコーヒーを3杯飲む。これは自分の中で決まっている。
朝10時半頃に出社し、1杯目はインスタントコーヒーを飲む。寝起きだと味がよくわからないので適当。
2杯目は昼。休憩から戻ったら、コーヒー屋で挽いてもらった豆をドリップして飲む。午後から本気出す、その前に少しでも贅沢な時間を、的な気持ち。
3杯目は夕方。インスタントコーヒー。長い夜に備えて。豆がもったいないから安いやつでOK。

 

ただ最近、朝にドリップしたり、昼にインスタントコーヒーを飲んだりしていた。理由は単純で、朝インスタントコーヒーを切らしていたり、昼に豆を切らしていたりしたから。


そんな感じでランダムにドリップとインスタントをしていたら、ついに先輩から「インスタント飲んだりドリップしたりするの、どういう基準なの?」と訊かれた。
おそらく先輩は、わたしがコーヒーを飲む習慣にパターンを見出そうとしたのだが、起こるはずの「イベント」が途中で起こらなくなったために混乱したんだろうな。

 

しばらく豆を切らした状態が続いているので、明日は少し多めに挽いてもらおう。600gくらいか。いつものパターンで「イタリアンロースト200gで」と言ってしまわないか心配だが。

鬼が居ないのに洗濯しない

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決めるってのは結構しんどい。

 

引っ越ししてみようかなと思い、ネットで賃貸住宅の情報を見る。
広い部屋、古いけど味のある造り、賑やかな街……今とはちょっと違った生活を想像するとそれだけで楽しくなる。
しかし、そんなわくわくした気持ちもすぐに蓋をされる。
「今じゃなくても良いか。」という自分の声に。

 

現在住んでいる部屋には、別に不満がない。
家賃はやや高めだけど、日当たりが良いし、設備も割と整っているし、駅やスーパーも近い。そして何より職場が近い。徒歩10分以内で行ける。
(一週間のうち5日働く生活をしていると、職場に近いかどうかはかなり重要)

 

例えば家賃が安くて広い部屋という条件を優先して、職場まで自転車で10分くらいのところに引っ越したとする。
晴れていれば良い。今と同じ時間に起きれば間に合う。でも、雨だった場合、歩いて行かなきゃいけない。
当たり前だが徒歩は自転車より時間がかかるから、その分を見越して早起きする必要がある。
いくら気をつけて起床時間を調整しても、朝起きたら予想外の雨が降っていたということもある。天気予報がいつだって当たるとは限らない。
別に濡れても構わないなら、雨だろうがいつも通りの時間に起きて自転車で行けば良いんだけど。でも濡れたくないしな。

 

それに、新しい部屋がいつも日当たりが良いのかは住んでみないとわからない。内見した日がたまたま何らかの条件が重なって明るく見えていただけかもしれない。スーパーの品揃えが思ったより微妙かもしれない。隣の住人が嫌がらせをしてくるかもしれない。
引っ越し先があまり良くなかったら、すぐに今の部屋に戻ってこられるのかな。さすがにもう無理か。別の人に取られちゃうか。
奇跡的に空いていたとしても、形式的には新たに入居ということになるから、また敷金やら礼金やらを払う羽目になるのか。

 

引っ越しするというだけで、あまりに考えることが多い。面倒だな。
じゃあ別に、今の生活に不満はないし、思い切って失敗するくらいなら引っ越さなくても良いか。というか今の生活で良いじゃん。となるわけだ。

 

今の環境に不満はないと言ったが、実はうちには駐輪場がない。それはちょっとだけ不便かもしれない(玄関に折りたたみの自転車を置いている)。
でも、わざわざ職場に自転車で行くほどの距離でもない。
だから、必然的に自転車を使わない生活になる。
晴れでも雨でも関係なく同じ時間に起きて、同じ時間に家を出ればいい。
天気の事を考えて睡眠時間を計算したり、突然のパンクの心配をしたりしなくていい。
選択肢を持たないというのは、楽なことだ。

 

 

かのスティーブ・ジョブズ氏や、某有名アートディレクター(くまモンとか作った)は、毎日同じ服を着ている(た)という。洗濯していないのではなくて、同じ服を何着も持っている。どうしてか? 毎日着る服を悩まなくて済むから。

 

前情報なしにそう聞くと、「やっぱり有名な人って変わってるんだな〜」と思って終了する。あと、確かに毎日同じ服だと楽だなとか(今思えば、中学や高校の制服って楽だったな)。


だが、この話の大前提になっているのは、彼らは仕事で意思決定をする場面がものすごく多いということ。より良い仕事をするために、ストレージを確保する。だから、それ以外のメモリは圧縮する。
彼らがファッションに無頓着なのではない。ジョブズ氏の服は良質なものだし、某氏もかつては散々ファッションにお金をかけていたが、最終的に現在のスタイルに落ち着いたのだという。
仕事とファッションを天秤にかけたとき、ファッションを「選ばないことを選択した」という話なのだ。

 

2018年現在がバブルなんじゃないかという話がある。
92年生まれのわたしには実感がないからよくわからないが、バブルというのは弾けて初めて気づくものらしい。「あの時は景気が良かった」的な。
生まれた頃から不景気と言われていて、劇的に上がったり下がったりしたことがない。でも実はオリンピックやら何やらで不動産や株価のバブルは進んでいて、どこかで弾ける。で、おそらく一般市民の我々にも影響が及ぼされる。

 

それと同じで、幸福とか不幸とかって、相対的なものだと思う。
幸せ真っ只中にいるときは、気付かない。それが「いつも通り」だから。でも何かが起きて状況が変わったとき、「あの頃に比べたら今は不幸だ」と感じるのだろう。
そして、緩やかに下降しているときも、多分気付かない。それが「いつも通り」だから。「あれ、もしかして今不幸なんじゃない?」とようやく思い始めた頃には、「幸福だった頃」とはかなりの開きが生じている。

 

決断を先延ばしにして現状を維持するのが悪いのではない。別に、それで怒られる訳でも、誰かが傷つく訳でもないし。
ただ、本当に現状を維持できているのか? という点については考えたほうが良いかもしれない。


部屋の話に戻るが、こうして同じマンションに住み続けている間にも建物の老朽化は進んでいく。だが、建物の価値が下がると家賃も下がるかと言えばそうではない。上がることはあっても下がりはしないだろう。となると、10年後に同じ家賃を払い続けているのは損をしていることになる。あるいは取り壊しのために退去を迫られ、慌てて別の部屋を探す羽目になるかもしれない。そしたら、「もっと時間のあるときに色々探しておけば良かった」と思うんだろうな。

 

もう既に、緩やかな下降は始まっている。

 

 

生活していく中で、漠然とした不安のようなものがいつもある。はっきりした形ではなく、もやもやしているんだけど、確実にそこにある。
何とかしたいけど、どうしたら良いかわからないから、とりあえずそのままにしておく。
そのままにしておくのは結構楽だ。明日急に不幸になる訳でもないし。
で、そうしているうちに、またもやもやが大きくなっている気がする。

 

「すごいな」と思わせてくれる人は、このもやもやを周りに感じさせない。
彼らは選択している場面が多い気がする。今よりももっと良くなるように、楽しくなるように。もちろんそれで失敗することはあるけれど、また選択し直すから問題ない。という感じか。とにかく決断を面倒くさがらない。
不安はもちろんあるんだろう。けど、きちんと向き合って、一つ一つもやもやを潰していってるんだろうな。

 

すごくなくて良いから現状維持で良いやなどとセコいことを考えている我々は、疑いもせず定額の家賃を払い続けたり、楽だからと同じような服ばかり着ている場合ではない。
すぐには引っ越せないとしても、せめて明日はいつもと違う服を着てみようというぐらいで、やっと現状維持ができるかどうかってところじゃないかなあ。
選択しようとしないのは、面倒くさいからだろうか、失敗するのが恐いからだろうか。
別に失敗したって、誰も怒らないのにね。

 

みんなのもやもやがちょっとずつ減ったら、もうちょっと楽しい世界になったりしないかなあ。

デカいものを全身で浴びに行く

「モネ展」初日に行ってきた。

パリのマルモッタン・モネ美術館には、モネが86歳で亡くなるまで手元に残した作品が数多く所蔵されている。今回はこのコレクションのうち、画家が10代で描いたカリカチュア(風刺画)から、生前に発表されることのなかった家族の肖像画、ルノワールなど同時代の画家による作品など約90点が公開されており、作品そのものだけでなく、モネという人物に思いをめぐらせられるような展示となっている。 

 

モネ展の目玉の一つは、10/8まで期間限定で出展されている「印象、日の出」だ。

 

f:id:enkbutter:20150927035246j:plain上の絵が「印象、日の出」

10/20からは入れ替わりで「サン=ラザール駅」(下の絵)が出展されるというのだから、商魂逞しさを感じずにはいられない。最低2回は来いということか。

 

この「印象、日の出」、東京では21年ぶりの特別展示ということで、鑑賞スペースはかなり大きめに取られている。にもかかわらず、多くの人がこの作品を目当てに集まってしまうので、せっかくの広い空間ではあったが、思うまま行ったり来たりすることは憚られた。

 

初めに遠くから眺めてみた。その瞬間、冗談でなく、息が止まった。ほの暗い空間のなかで、四角く切り取られたこの景色だけが浮かび上がって見えたのだ。というか、発光しているみたいだった。絵のなかの太陽が、本当に水面を照らしているようだった。眩しい、と顔に手をかざしたくなるくらいに。

もっと近づいてみたいと思い、近くで見るための待機列に並んだ。いよいよ順番が回ってくる。

ところが、目の前で見た日の出は「?」だった。少し高いところに飾られていたので、近づくにつれ自ずと見上げて鑑賞する形になるのだが、斜め下から見た日の出は、ライトを反射して白くなりすぎていた。

すぐに、初め見た場所に引き返した。そして、やはりここから眺める日の出は素晴らしかった。順路に従い次の展示スペースに向かって歩きながら、もう一度振り返る。眩しかった。

 

 

「モネ展」もう一つの見所は「睡蓮」の連作だろう。

1883年にジヴェルニーに移り住んだモネは、自宅の庭に池を造り、水面に浮かぶ睡蓮や移ろう光をモチーフに描くことを繰り返した。

展示スペースには大きなキャンバスがいくつも並んでいて、もうそれだけで圧倒されてしまう。本当は、昨年チューリヒ美術館展で見た「睡蓮の池、夕暮れ」をもう一度見たかったけど。

 

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チューリヒ美術館展のお土産に買ったしおり。 

実際の作品は2m×6mというデカさ!

 

 

モネ展は訪れた甲斐があった、実際に見ることができて良かったと思ったが、果たしてそれは見たものがホンモノであったからだろうか。

答えは、おそらく否だ。

根拠がある。「印象、日の出」を間近で見たとき、わたしは作品をうまく鑑賞できなかった。もしそこに飾られた作品が偽物だったとしても、気付くことはなかっただろう。思うにあれは、遠くから見たときのライティングが素晴らしかったのだ。

「睡蓮」にしても、大きなキャンバスが並ぶ空間に圧倒されたのは確かだが、それがホンモノかどうかなんて、素人のわたしには判らない。

 

 

ホンモノであるかどうかは、さほど重要ではない気がしている。

徳島県の鳴門市にある大塚国際美術館(http://o-museum.or.jp/)には、約1000点もの名画が展示されているのだが、なんとその全てが”ニセモノ”である。しかも入館料が高い。一般が3240円、大学生でも2160円。日本一高いらしい。にもかかわらず、来場者は後を絶たず、大人気の美術館となっている。

 

なんでも、古代壁画から現代絵画まで、世界25カ国190余の美術館が所蔵する名画を、特殊技術によって原寸大の陶板で忠実に再現して展示しているらしい。2000年以上にわたってそのままの色と形で残るので、退色劣化を逃れられないオリジナル作品をはじめとする、文化財の今後の記録保存のあり方に大きく貢献するものとして注目されているとのこと。

ニセモノだから、他の美術館のようにロープが張られているわけでもないし、なんなら触ることだってできる。ホンモノと同じ質感を楽しめるらしい。

 

ここでもモネの「睡蓮」を見ることができる。しかも屋外でだ。

f:id:enkbutter:20150927040021j:plain大塚美術館公式サイトより

 

「大睡蓮」の池にはホンモノの睡蓮。その中にモネの「睡蓮」が円形に展示されているそうだ。

 

 

ホンモノかどうかと言ったら、映画を観に行く行為だってだいぶ怪しいものだ。あちこちの映画館で上映するためにフィルムを複製している時点でそれはホンモノではないし、ましてや最近の映画館には、一切フィルムを使用しないで上映するところさえある。

 

話は前後するが、8月の終わり、東京・立川シネマシティに「マッドマックス 怒りのデスロード」の”極上爆音上映”を観に行った。スタジアムで使うような音響装置を使った上映で、とにかく音がデカい。

作品自体は一度地元・埼玉の映画館で観ていたので、2回目の鑑賞となったが、平日の朝にもかかわらず席はほぼ埋まっていて、その人気ぶりを改めて感じさせられた。

 

極上爆音上映の感想は、「気持ちいい」の一言。もうそれに尽きる。作品の解説は色んなところで色んな人がやってくれていると思うので彼らに任せる。とにかく極上爆音上映は気持ちが良かった。

 

立川を訪れるのは初めてで、行くのにも結構時間がかかったので、せっかくだから立川ショートステイを楽しんでいくことにした。

事前に立川周辺に住む友人に遊べそうなところがないか訊いてみたのだが、返ってきた答えは……「デパート・カラオケ・ボウリング・漫喫」。

 

埼玉かな?

 

ネットで調べてみてもあまり良い情報を探し出せなかったので、とりあえず街を歩いて自分で確かめてみることにした。

それが意外と面白かったのだ。

 

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シネマシティ。おしゃれ

 

 

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少し奥の商店街。昔この辺りに映画館があったのだろうか

 

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駅周辺、謎のオブジェ

 

f:id:enkbutter:20150927040238j:plainこれも作品……?

 

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f:id:enkbutter:20150927040932j:plain砦に戻ってきたフュリオサ

 

 

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サイケすぎる地下道

 

f:id:enkbutter:20150927041406j:plainこんなコワイ顔だけど……

f:id:enkbutter:20150927041455j:plain「そろそろエッチしたい」

 

きっと、この辺りに住んでいる人たちにとってはこれらの風景が当たり前すぎて気にも留めないのだろうけれど、初めて見るわたしにとっては驚きの連続だった。

極上爆音上映は観に行って損なしといった感じだったが、それは後の立川散策が楽しかったということによって豊かに肉付けされている。

 

 

落ち着いて鑑賞できない/ホンモノじゃないのなら画集で良いじゃん、DVDで良いじゃんという考えは一理ある。実際に観に行くより時間もお金もかからないから合理的だ。

だけど、それだけではもったいない所もある。画集に載っている作品は綺麗に写っているかもしれないけれど、それはカメラが捉えた視点の域を超えない。自宅でDVDを観ていると、緊張感のなさから眠くなったり、ケータイの着信が気になったりする。

でも、実際に足を運べば、同じ作品でも角度や明るさによって異なる表情を見ることができる。知らなかった風景に出会うこともある。

自分の足で作品に向かって行き、周りの空気ごと全身で浴びるという体験は、画集やDVDを観るよりも間違いなく鮮やかに記憶され、再生されると思う。

外に出るのは、結構楽しい。

 

 

モネ展会場の最後はグッズ売り場になっていた。企画展のグッズ売り場というと、ポストカードや会場限定販売のお菓子などが人気のイメージだが、今回に関しては「印象、日の出」の複製画を見ている客が多かったように思う。まぁ、どの複製画もそれ自体が光っているように見えたものは無かったのだが。

せっかく来たのだし自分も何かお土産を買っていこうかと思ったが、入り口のところで所持品を全てロッカーに預けてしまったので何も買えなかった(その点、国立新美術館なんかはグッズ売り場だけの入場もできるのが良いよね)。

 

会場を出たところに、この展示のオフィシャルサポーターであり、音声ガイドも担当している画伯・田辺誠一の作品が展示してあった。しかもデカい。

 

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なんらかのディレクションがあったにせよ、この人は絶対に絵がうまい。