環境のせい/自分のせいという発想のコペルニクス的転回

「環境のせいにするな」とよく言われるが、普通に環境のせいはあるんじゃないのか

しばらくローテーブルしか家具のない部屋で生活していたところ、一切のやる気が起きず、惰眠を貪ることが多くなった。


たまにPCを使って作業をするときは、テーブルの上でPCを開き、その横に小さなテレビを移動させてきてサブモニター代わりにしていた(いちいち移動させる動作がまず面倒くさい)。
そんなこじんまりとした環境なうえ、床に座っているものだから、すぐにお尻や腰が痛くなってくる。少し休もうにも、座椅子などはないので寄りかかる場所がない。そうすると床を背もたれにして仰向けになり、いつの間にか眠りに落ちてしまう。


そして、なにせ小さなテーブル1つしかないから、一度テーブルにものを出したら、食事のときにはそれらをどかさないといけない。1日のうち食事のタイミングは必ず複数回訪れるので、そのことを考えると、PCをテーブルの上に置く気力がなくなってくる。しまいには、PCをパカッと開く動きさえ億劫になった。 

 

 

2020年春。件のウイルス大流行を受け、全国に緊急事態宣言が出され、多くの人がリモートワークを強いられた(「リモートワーク」、「テレワーク」、「自宅勤務」など呼び方は様々だが、わたしは好んでリモートワークと呼んでいる。「テレワーク」には何故か昭和の匂いを感じる)。
よく読む雑誌ではリモートワーク特集が組まれ、広めのデスクやちょっと良いチェア、モニターなどが紹介されていた。SNSを開けば、通販でリモートワークグッズを買い揃えている友人も。

 

職場が徒歩圏内ということもあり、自分はリモートワークではないのだが、いろんな人が自宅環境を整えて能率アップした話には大変な刺激を受けた。
ごくたまに行っている、趣味やフリーランス的な制作、仕事のための勉強などをするときに、その能率が上がったら素晴らしい。というか普通に考えて、できることが増えればその分年収が上がるはずだ(年収2000万円欲しいと常々言っている)。

 

そこで思い出した。
テレビ台を買ってもらう約束があったことを。
去年の秋に引っ越したとき、お祝いとして、友人がテレビ台のための資金を出してくれることになっていたのだ。
ちなみに品目はサイコロを振って決めた。1がたこ焼き器、6がウォシュレットで、テレビ台は2だった。

 

先述したように、自分はテレビをサブモニター代わりに使っている。
むしろテレビと思っていない。サブモニターだと思っている。

 

一応、「テレビ台のための資金」という名目があったので、
テレビ台をいろいろ探してはみたのだが、自分にとってあまり良いものはなかった。
小さすぎたり、逆に大きすぎたり。

 

最低条件:
・20インチのテレビが載る
ルーターとケーブルテレビのチューナーが置ける

 

……上記全てが載りきるような長机を買って、テレビ台兼作業台にすれば良いのでは。天才!

 

約束のある手前、「テレビ台」で押し通すことにした。

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バレた

ついでに椅子も買った。
コスパ最強と言われているイームズチェアのリプロダクト品。1万円を切るが、背面がしなるのでずっと座っていても疲れない。

 

こうして環境を整えたことにより、休日に昼寝をしなくなった。
コーヒーさえ手元にあれば何時間でもPCに向かっていられる。

 

さらに、ルーターとチューナーをを床に置かなくなったので、ケーブル類もスッキリした。
実は、自分としてはこれらを床に直置きしているのがいちばん気に入っていなかった。ホコリが溜まるし、掃除もしづらいし。
今では掃除がしやすくなり、家具が増えたにも関わらず逆に部屋が綺麗になった。
部屋が綺麗だと自然とやる気が湧いてくる。

 

自分がだらけていたのは完全に環境のせいだった。
前回の記事で、古いMacbook Airを買い替えずに済ませるための言い訳をうだうだ並べたが、普通に新しく出たpro買お。

 

 

環境のせいか、自分のせいかという問いは実は間違いらしい

環境のせいにするなというなら全ては自分のせいなのだろうか。だが、テレビ台 a.k.a. 長机の一件があってから、必ずしも「環境のせいにするな」とは言えないんじゃないかと思った。環境のせいの場合もあるじゃないかと。

 

確かめたくて「環境のせいにするな」でググった。すると4件目くらいにヒットした意識高い系ブログにこんなことが書いてあった。

 

・そもそも「自分のせいか」「環境のせいか」と問うこと自体が不毛。それは環境のせいにする心理と、自分のせいにする心理というのは、実は同じことだから。
・誰のせいなのか、誰のせいにしようかというふうに思考し続けている人が本当に欲しがっているのは「自分が今いる、その環境にいることの正統性」。
・目を向けるべきなのは「どうやってその状況を脱するか」ということ。

 

なるほどなと思ったが、意識高い系ブログに啓発されている状況が少々嫌だったので、なんかもっと偉めの人が言ってる言葉というか、裏付けが欲しくなった。
いろいろと探しているうちに、「問い自体が不毛」という言葉にピンときた。

 

 

『それでも人生にイエスと言う』

『それでも人生にイエスと言う』は、ナチスによる強制収容所の体験として全世界に衝撃を与えた『夜と霧』の著者ヴィクトール・フランクルが、その体験と思索を踏まえて「人生を肯定する」ことを訴えた講演集。
大学の基礎演習でいちばん初めに受けた授業が、この本を各自読んで考察をまとめ、グループディスカッションするというものだった。
初めての授業ということもあり印象に残っているのだが、この本の中にこのようなことが書いてあった。
原本が手元にないため言い回しなどは正確でないことをあらかじめ断っておく。

 

・「成功」や「幸福」は「自己超越」(自分以外の物や事や人に我を忘れて没頭すること)の結果として手にする副産物にすぎない。つまり、求めるべきゴールではない。
・人は問いをするのではなく、人生から常に問われている存在であり、その問いに正しい行為で答え続けることが生きる意味であり責任。

 

人が生きる意味を問うこと自体が間違っているというコペルニクス的転回。
「置かれた場所で咲きなさい」みたいなことだろうか。
最近でいうと丁寧な暮らしがそれにあたるのか。

 

余談:コンビニで売っている「なめらかソースの海老グラタン」「おだしで炊いたあじご飯」みたいな修飾 + 名詞にすると丁寧な暮らしっぽくなる。
例)「1ヶ月前からじっくり抽出させた麦茶」「毎日必ず持ち歩くのは、画面に放射線状の模様を入れたスマホ

 

 

ということで。環境のせいにするのが愚かで自分の責任にするのが偉いみたいに思いがちだが、そもそも何かのせいにすること自体が見当外れだったっぽい。
無駄に居眠りして自己嫌悪に陥ったときは、起きていられる工夫を考えよう。

 

さてわたしは今日もピカピカに磨き上げたデスクの上で、6年間使い込んだPCを開いて、駅前のコーヒー屋で挽いてもらった豆をドリップしたコーヒをお供に夜な夜な作業するか〜!