心のノートって、覚えてますか


首都医校 2014年度TVCM 患者が自分篇【首都医校ch】 - YouTube

 

「自分だったらどうしよう」

 

相手を自分自身に置き換えて考えることは、わたしたちが昔から、学校や家庭で教え込まれてきたことだと思います。

 

「自分がされていやなことは、ひとにしてはいけません」

 

でも考えてみると、これってちょっとヘンだと思いませんか?

他人は他人であって(「よそはよそ」と言いますね)、自分ではないのですから。

相手がされて嫌なことをしてはいけませんと言うのなら、わかるけれど。

どうして妙に自分目線なのでしょうか。

 

 

「自分がされていやなことは、ひとにしてはいけません」

 

この命題を無批判に受け入れることには、ちょっと待ったをかけたいのです。

 

 

 

「どうして自分がされて嫌なことを人にしてはいけないの?」

「自分がされて、嫌だなぁ~って思うようなことは、人にもやっちゃいけないのよ。」

 

ダメだからダメって言われました。言い換えてもいません。助詞を理解したオウムですね。

 

 *

 

映画を観たあと、新宿でオシャレなカフェに入りました。

いつもはタコライスを頼むところ、今日はローストビーフボウルにしてみることに。

 

しかしどうして、お冷にレモンが入っているだけで得した気分になるんでしょうね。

そういえばめっきり姿を見なくなった東京チカラめしのお冷にも、レモンが入っていたなあ。

 

さて、お待ちかねのローストビーフボウルが運ばれてきます。

(店員さんが料理を運んで来てくれるまでの間、それに気づかないフリをしたくなる現象について先行研究等ありましたら教えて下さい。)

 

バラを思わせるような真っ赤なローストビーフの花、その上に艶めかしく自らを横たえる緑色のクレソン

 目まいがするほどのハレーション。

向かいに座る友人は、クレソンが嫌いらしいけれど。わかってないねぇ。 

 

さっきから苦しげなうめき声をあげているお腹の虫に代わって、このわたくしが、蜜を吸い尽くしにかかるのです。

花びらを一枚。

 

「失礼しまぁ~~~~す」

 

ところがどっこい、ピカピカのフォークでローストなビーフをめくり上げた瞬間、高ぶった気持ちは一瞬にして消え去ってしまうのです。

虫界の駆け出しがドキドキしながらお目当ての花の扉を明けたら、既にクモがいたみたいな感じです。

 

ローストビーフの下には、わたしが嫌いなキノコが、それはそれはもう沢山隠れていたのです。

頼むから、あらかじめメニューに書いておいてくれ。

 

 

わたしは嫌なことをされました。

自分の嫌いなキノコを、こうやって目の前に出されたのですから。

ローストビーフにどんなに味が滲みていようと、バルサミコ酢との相性が絶妙だろうと、もうわたしの頭の中は、このキノコ群をどうやって処理しようかということで一杯なのです。

 

そこでわたしは、自分がされて嫌だったことを、他の人にしました。

向かいに座る友人に、わたしの嫌いなキノコを全てくれてやったのです。

 

しかし、友人は嫌がる素振りなんか何一つ見せず、むしろ喜んでいるようなのです。

 

 

 

1.「いやなこと」について

 

上の例では「いやなこと」=「キノコを出されたこと」と捉えました。

ところがそれを「人にする」=「相手にキノコをやる」ことは、悪いことではなかったようです。

 

ここでポイントになるのは、

わたしが嫌いなもの=キノコ=相手の好きなもの

であったことです。

 

 そこで、「いやなこと」=「自分の嫌いなものを出されたこと」と捉えてみます。

すると「人にする」=「相手に、相手の嫌いなものをやる」ということになります。なんだか悪いような気がしてきますね。

 

「自分がされて嫌なことだから、人にしてもいけないんだ」と自動的に受け入れて実行するのではなく、その「いやなこと」をどのレベルから考えるのかということが必要になってきそうです。

 

 

2.「自分がされて」と一旦置き換えることについて

 

「いやなこと」については何となくわかったような気がするものの、実際のところ、「相手の嫌いなもの」というのは、よくわからないのです。

 

もちろんわたしは、相手がキノコが好きなことを知っていたからキノコをあげたし、クレソンが嫌いなのを知っていたからクレソンを押し付けるようなことはしませんでした。

でも、実は相手がレモン入りのお冷が好きじゃなかったということは、相手が言い出さない限り、ずっと知ることはできないのです。

 

 

人間は、他人を本当に理解することなんて、できっこないのです。

相手にとって何が「いやなこと」なのかも、わからないはずなのです。

だから考えるときは、ひとまず自分に基準を置いてみる他はありません。

 「もしもわたしがキノコが好きでクレソンが嫌いだったとしたら、」

 

しかしこれは、やはり完全ではありません。レモン入りのお冷が嫌いだという要素が抜け落ちていますから。

それでもまだ、自分の基準で相手のことを思う意味はあるのでしょうか。

 

 

3.「いやなこと」と「正しいこと/正しくないこと」について

 

「いやなこと」を「正しいこと/正しくないこと」と結びつけるのは、ちょっと立ち止まって考える必要があります。

相手が嫌がるだろうと考え、相手が他の人に暴力をふるうのを内緒にしておくことは、正しいことと言えるでしょうか。

また良かれと思ってカンニングの手伝いをすることも、正しいこととは言えないでしょう。

 

そもそも今あなたが「正しい」と思っていることは、なぜ「正しい」と言えるのでしょうか。

例えば数学には決まった公式や手続きがあって、それに沿えば必ず正しい答えが導き出せます。

それは数学自身の正しさであって、あなたが思う「正しさ」とは関係ありません。

自分が思うのだから正しいと思っているだけだとしたら、それは危険なことでしょう。 

 

 

世の中には、いろいろな人がいます。

男らしく生きること、女らしく生きることに疑問を持つ人、一方で何も不自由を感じない人。

宗教上の理由で頭に布をかぶる女性は尊重されるのに、帽子をかぶって授業に出たら怒られた。

それに、先程正しいこと/正しくないことの話をしましたが、何が正しくて何が正しくないのかなんて、時代によって変わってしまいます。地球が平らで天が動いているのだという考えが正しかった時代もあったのですから。

 

それならば、もう自分が思うままに生きれば良いじゃないか。

 

しかし人が集まると、どうしたって関係が発生します。 

それは上下関係かもしれないし、利害関係かもしれない。

自分が思う正しさだけを突き通せば、必ず衝突が起こるでしょう。

レモン入りのお冷が好きな人たちが、こっちが良いからと言って全てのお冷をレモン入りにしてしまったら、レモン入りお冷が好きでない人たちは困ってしまいます。

でも正しさ自体も、時代によって変わってしまう??? 

 

 

そこで必要なのは、妥協点を見出すという作業だと思います。

 

妥協点は、「すべての人が満足するやり方」とは違います。

それは実際には存在し得ないでしょう。

 

 

他人のことなんてわかりっこないから、ひとまず自分に置き換えてみる。

しかし自分の持っている知識、理解できる範疇でものを考えるには限界があります。

 互いの意見に耳を貸したり、知らなかった世界の知識を取り入れることで、妥協点にぐっと近づくことが出来ると思います。

 

それが、不完全なわたしたちにできること

「自分がされていやなことは、ひとにしてはいけません」

なのではないでしょうか。

 

 

 

なんてことが、この言葉に隠されているんでしょうかね?とりあえず、「なんで病」を患った子に質問をされたとき、ただ「ダメだからダメなのよ」と教えるのではなく、何かしら答えを用意しておくとこの先便利なんじゃないでしょうか!おわり!

 

この記事を書くに当たって参考にした本

「14歳の君へ どう考えどう生きるか」 

池田 晶子 著、毎日新聞社、2006年

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4620317888?pc_redir=1412450575&robot_redir=1

8年振りに読みました!